私の辞世の句は決めてある。
剽窃呼ばわりされても構わない。過去にあった、辞世の句を、そのまま自分にも用いようと、決めた。
ひとたび目にしたその句が、心の奥底深くに、刻まれたから。
『何を惜しみ、何も恨みん
ただ、この有り様の、定まれる身に』
戦国時代、毛利元就に厳島合戦にて敗れ死した、陶全キョウ晴賢の辞世の句として伝えられる一文である。最も、厳島に碑として残るその文言は、陶晴賢のではなく、後世の創作とされる意見が強いが、この際それはどうでもいい。
何を惜しむでもない、恨むわけでもない。最初からこうなる事は決まっていた身なのだから。
つまりは、末期の際に、後悔をしていない。
死に際してこう言える、そんな生き方であろう、というのを自らの目標としている。
私が相談などを持ちかけられた時によく口にするのは、後悔と反省は違うよ、というもの。
後悔から反省に導かれる事はままあるが、後悔は基本、悔やむばかりで先に進まない。止まった位置から後ろにしか視線がいかない。
対し、反省は、省みて、前を向く。視線が、前にある。
あの時ああしとけば、という後悔は、何にもならない。あの時、に戻れるはずはないのだから。
あの時ああ「しなければ良かった」、は後悔から導かれた反省とはなる。
私にだって、後悔はある。昔の話だけどね。
多くの場合で、「やらないで」きた。
何も、生み出さなかった。
そしてほとほと思った。やらないで後悔するくらいなら、やったほうがいい。
例え失敗したとしても、やる、と前を向いて決めたのは自分だ。責任は自分にしか帰さない。やらない、という決断も時には必要だ。ただ、その決断を悔いるな。
そう、自分に言い聞かせて、これまでの人生、歩んできた。
勿論、先に進もうとするだけがいいわけではない。蛮勇と勇気は全く別のものだ。そしてそれを区分する際に、それまで得た反省が生かされる。
今、ここにいる自分は、自らの決断の積み重ねであって、他者になんら責任が帰するものではない。
第三者要因が絡んで、自分の意に添わない状況に置かれている人もいるだろうが、そちらを選んだのは多くの場合で、自身なのだ。
何故か不意に、心を去来した「どうしようもない焦燥感」に対し、私が普段から思っている事を吐露して、ちょっとでも、自分を落ち着かせよう。そんな文でした。
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